食料品を買う以上の場所
2025年9月30日、三越伊勢丹グループのスーパーマーケットチェーン、クイーンズ伊勢丹は、JR浜松町駅南口から徒歩2分の場所に、新業態となる「クイーンズ伊勢丹 浜松町店」をグランドオープンさせました。売場面積約158平方メートル、取扱品目数約1500というコンパクトな店舗ですが、その中には従来のスーパーマーケットの常識を覆す多機能性が凝縮されています。

朝(仕事前):一日の始まりを彩るコーヒーとベーカリー
平日の朝7時30分から営業を開始するこの店舗は、出勤前のオフィスワーカーを最初のターゲットとして捉えています。店内には専用のコーヒー・ベーカリーコーナーが設けられ、クイーンズ伊勢丹オリジナルのスペシャルブレンドコーヒーや、スペシャルティコーヒー専門店として名高い「猿田彦珈琲」とのコラボレーションによるドリップコーヒーなどを提供します。これは、忙しい朝に手軽かつ高品質な一杯を求める顧客層を、カフェやコンビニエンスストアから取り込むための明確な戦略です。

昼(ランチ):自分好みに作る「Hot Deli BENTO」
ランチタイムには、「Hot Deli BENTO」というコンセプトを導入しています。これは、店内で調理された温かい主菜や副菜を、顧客が自由に組み合わせて自分だけの弁当をカスタマイズできるサービスです。画一的な弁当を提供するコンビニエンスストアや、選択肢の限られるランチ専門の飲食店に対し、「選ぶ楽しさ」と「出来立ての品質」という付加価値で真っ向から挑戦しています。

夕方(仕事後):革新の中核「Yorimichi Bar(よりみちバル)」
この新フォーマットで最も革新的と言えるのが、平日の午後4時から8時30分まで営業するスタンディングバー「Yorimichi Bar(よりみちバル)」です。ここでは、店内で販売されている好きなワインや日本酒を選んでその場で楽しめるほか、「山崎」や「白州」といった人気のジャパニーズウイスキーをハイボールで味わうこともできます。さらに、揚げたての軽食など、お酒に合うおつまみも用意されており、仕事帰りの一杯という需要を店内に取り込みます。

贈答・催事:ビジネス街のニーズに応えるギフト機能
浜松町というビジネス街の立地特性を捉え、法人ギフトや手土産の需要に応えるためのギフトコーナーも強化されています。特筆すべきは、クイーンズ伊勢丹として初めて高級フルーツ専門店「銀座千疋屋」の商品を取り扱う点です。これにより、急な訪問や接待といったビジネスシーンでのニーズにも対応できる品揃えを実現しています。

ハイブリッドな都市型プロフェッショナルのためのサービス
この多機能フォーマットは、単なる思いつきの機能の寄せ集めではありません。それは、特定の顧客像、すなわち「週に数日だけオフィスに出社し、その日には最大限の利便性と質を求めるハイブリッドワーカー」に、極めて高度にターゲティングされたソリューションなのです。
従来のスーパーマーケットのビジネスモデルは、主に「夕方のまとめ買い」という、一日のうちの一つの大きな買い物に依存していました。しかし、浜松町店の新フォーマットは、朝・昼・夕方という一日の複数の時間帯(デイパート)にわたって収益機会を創出するように設計されており、店舗の経済モデルを根本から変革しようとしています。
この戦略転換の背景には、働き方の地殻変動があります。ハイブリッドな勤務形態は、計画的に週一度の大きな買い物をするという習慣を減らし、オフィスに出社したその日の必要性に応じて、より自発的に購買を行うという行動を増やします。日々の通勤は、もはや固定化されたルーティンではありません。
クイーンズ伊勢丹のソリューションは、この新しい現実に完全に対応しています。朝、昼、夕方と異なるサービスを提供することで、一人の顧客が同じ日に何度も店を訪れる理由を創り出します。例えば、ある顧客は「朝、出勤前にコーヒーを買い、昼には弁当をカスタマイズし、夕方にはバルで軽く一杯飲んでから、夕食の材料を買って帰る」といった一連の行動を、この一つの店舗で完結させることが可能になります。
これがもたらす財務的なインパクトは計り知れません。顧客一人当たりの支出占有率(ウォレットシェア)と生涯価値(ライフタイムバリュー)を劇的に増加させ、ビジネスの焦点を一回の買い物かごの大きさから、来店頻度とクロス・カテゴリーでの支出へとシフトさせます。特に、コーヒー、弁当、バルといった利益率の高いフードサービスが、この戦略の収益性を支える鍵を握っているのです。

「サードプレイス」としてのスーパーマーケット
この新フォーマットの中で、特に「Yorimichi Bar」は最も戦略的に重要な要素です。なぜなら、それは店舗のアイデンティティそのものを、「商品を売る場所」から「時間を過ごす場所」へと変革するからです。これは、スーパーマーケットを、家庭(ファーストプレイス)と職場(セカンドプレイス)の間の、心地よい社会的ハブ、すなわち「サードプレイス」として再定義する野心的な試みです。
この戦略は、防御的かつ攻撃的な側面を併せ持っています。現代のスーパーマーケットは、手軽な食事ではコンビニエンスストア、夜の社交ではレストランやバー、そして日々の食料品ではオンラインデリバリーと、あらゆる方面から厳しい競争圧力にさらされています。
バー機能と高品質な惣菜を店内に統合することで、クイーンズ伊勢丹はまず自らの領域を防衛します。顧客が仕事帰りの一杯や夕食のために、他の飲食店やコンビニへ流出するのを防ぐ。これが「防御」の動きです。
同時に、独立したバーやレストランよりも便利で、おそらくは手頃な価格の代替案を提供することで、「攻撃」に転じます。既存の店舗面積とサプライチェーンという資産を最大限に活用し、新たな高収益事業カテゴリーに参入するのです。
この戦略は、富裕層の消費行動に関するデロイトの調査結果とも完全に一致しています。同調査では、この層が単なるモノの所有よりも「体験」と「品質」に対してより多くを費やす意欲があることが示されています。クイーンズ伊勢丹のフォーマットは、まさにこの消費者トレンドを物理的な店舗として具現化したものです。プレミアムで体験主導の環境を創出することで、より高い価格設定を正当化し、単なる価格競争を超えた顧客ロイヤルティを育むことを目指しています。
これは、「エブリデー・ロープライス(EDLP)」戦略で徹底的に価格価値を追求するような小売ビジネスモデルとは対極にあります。クイーンズ伊勢丹の挑戦は、小売市場が「価格価値」を追求するプレイヤーと、「体験価値」を追求するプレイヤーへと、ますます二極化していく未来を明確に示唆しているのです。

見通しと今後の展望
クイーンズ伊勢丹浜松町店の試みが成功すれば、日本の都市型スーパーマーケットのあり方に大きな影響を与える可能性があります。このモデルは、浜松町のようなオフィスが密集するビジネス街で特に高い効果を発揮するでしょう。
しかし、課題も存在します。第一に、このモデルは特定の立地に大きく依存するため、郊外や住宅街の店舗にそのまま展開するのは困難です。第二に、コーヒー、デリ、バーという複数の高品質なサービスを約158平方メートルという限られたスペースで効率的に運営するには、極めて高度なオペレーション能力が求められます。
それでもなお、この挑戦は大きな意味を持ちます。オンラインでは決して提供できない「リアルな場」の価値とは何か。クイーンズ伊勢丹の答えは、単なる商品の陳列棚ではなく、顧客の日常に深く寄り添い、一日の様々なシーンを豊かにする「サービス拠点」となることでした。この浜松町店が、未来のスーパーマーケットが生き残るための一つの力強い道筋を示していることは間違いないでしょう。
