高市早苗氏が総理大臣に就任し、「物価高をとにかく抑制する」「ガソリンを安くする」と宣言した場合、私たち小売業界は即座に対応を迫られます。彼女が掲げる経済政策、通称「サナエノミクス」は、家計への直接支援と経済安全保障を二本の柱としており、その影響は価格設定からサプライチェーンまで、事業の根幹に及びます。
本レポートでは、高市政権が断行する可能性のある政策が、小売の現場に具体的にどのような変化をもたらすのか。新たな外交方針がもたらす光と影は何か。セクター別に予測される勝者と敗者を、具体的な数字と共に徹底分析します。

物価高抑制と直接支援の現実味
高市政権の最優先課題は、国民が最も苦しむ物価高の抑制です。そのための具体的な武器として「給付付き税額控除」の導入と、ガソリン価格の引き下げが挙げられます。これらは消費者の可処分所得を直接的に増やすため、特に日々の暮らしに密着した小売業態に大きな影響を与えます。
用語解説:給付付き税額控除とは?
所得税から一定額を差し引く「税額控除」の一種です。最大の特徴は、納税額が控除額より少ない場合、その差額が現金で給付される点です 3。これにより、所得が低く納税額が少ない、あるいは非課税世帯でも、制度の恩恵を現金給付という形で受け取ることができます。
ある試算では、年収400万円の単身世帯の場合、この制度によって手取りが年間4万円増加する可能性が示されています。このお金は富裕層の一時金のように貯蓄に回るのではなく、日々の食料品や日用品の購入に直接使われる可能性が極めて高いです。これはスーパーマーケットやドラッグストア、ディスカウントストアにとって強力な追い風となるでしょう。
さらに、公約として掲げられたガソリン税の暫定税率廃止や、リッターあたり10円といった具体的な引き下げ策が実行されれば、消費者の行動範囲は広がり、郊外の大型ショッピングセンターなどへの客足も回復する可能性があります。電気・ガス代への補助金も継続が検討されており、家計の負担を直接的に軽減する政策が重視されます。

アメリカ重視が揺さぶるインバウンド市場
円安は、インバウンド消費にとって最大の追い風です。2024年のインバウンド消費額は過去最高の8兆1395億円に達し、2019年からの増加分のうち実に半分以上が円安効果によるものと分析されています。外国人観光客にとって日本の商品は「セール品」同然であり、一人当たりの消費額も増加傾向にあります。
この恩恵を最も受けるのは、百貨店、ドラッグストア、高級ブランド店です。特に化粧品や健康グッズ、高価な宝飾品などの売上が伸びています。
しかし、高市政権の「アメリカ重視」という明確な外交姿勢は、この市場に新たなリスクをもたらします。特に中国に対しては強硬な姿勢で知られており、台湾問題などをめぐって外交的な緊張が高まった場合、政治的な理由で中国からの団体旅行が突然停止される可能性は否定できません。
中国はコロナ禍前と比較してシェアを減らしたとはいえ、2024年でも1兆7000億円以上を消費する最大の顧客です。この巨大市場が不安定化するリスクは、これまで以上に高まります。さらに、高市氏は外国人観光客のマナーについて厳しい見解を示したこともあり、特定の国からの観光客に売上を大きく依存している店舗は、事業戦略の根本的な見直しを迫られるでしょう。今後は、欧米豪や東南アジアなど、より多様な国からの観光客を惹きつける「ツーリスト・ポートフォリオ」の構築が不可欠となります。

円安が加速させる勝者と敗者の二極化
インバウンドの熱狂の裏で、多くの小売業者が円安の悲鳴を上げています。ある調査では、小売業の66.2%が円安を「マイナス」と回答 。特に輸入品を多く扱う「各種商品小売業」に至っては、100%がマイナスの影響を受けていると答えています。全体で見ても、企業の半数以上が円安の「デメリットの方が大きい」と感じているのが実情です。
この圧力は、価格交渉力や為替予約などのリスクヘッジ手段が限られる中小企業ほど深刻です。上昇した仕入れコストを販売価格に完全に転嫁できず、利益を削って耐えている企業は少なくありません。
この状況下で、新たな消費の主役として躍進するのがプライベートブランド(PB)です。インフレが進む米国では、ディスカウントストア「アルディ」や大手小売「ターゲット」が、高品質かつ低価格なPB商品を武器に、ナショナルブランド(NB)のシェアを奪っています。例えば、ターゲットが展開する食品PB「Good & Gather」の年間売上は40億ドル(約6000億円)に迫り、2024年に投入された激安PB「dealworthy」はほとんどの商品が10ドル以下という価格設定で消費者の支持を集めています。
PB開発はもはや単なる利益改善策ではなく、企業の生き残りをかけた「戦略的な防波堤」です。PBは、NBメーカーの価格戦略から距離を置き、自社で価値と価格をコントロールすることを可能にします。今後のスーパーやドラッグストア業界の競争は、PB商品の品質とブランド力をめぐる戦いになるでしょう。

経済安保が変える調達戦略
高市氏の政策のもう一つの大きな柱が「経済安全保障」です。これは、国民生活に不可欠な物資や食料を安定的に確保するという考え方であり、小売業のサプライチェーン(商品供給網)に長期的な構造変化を促します。
高市政権は、日本の「モノづくり」を国内にしっかりと残し、支援することを重要な政策課題として掲げています。企業が海外から国内に生産拠点を戻しやすいよう、安価で安定した電力の供給や、高度な技術に対応できる人材の育成などを政府が後押しするとしています。また、半導体などの「特定重要物資」については、サプライチェーン強靭化のための民間事業者の取り組みを支援する法律もすでに存在します。
これにより、小売業の仕入れ担当者は、これまでとは異なる判断基準を求められます。これまでは「コスト」が最優先でしたが、今後は「サプライチェーンの安定性」「地政学的リスクの低さ」、そして「『日本製』という付加価値」を総合的に評価する必要が出てきます。短期的にはコスト増となっても、長期的にはより安定的で収益性の高い選択となる可能性があるのです。
食料安全保障の確立も重要なテーマです。国内の農業を振興し、天候に左右されない植物工場や陸上養殖といった先端技術の普及を後押しするとしています。これは、海外の天候不順や紛争による原材料価格の急騰リスクを低減させると同時に、「採れたて無農薬」といった付加価値の高い商品を開発する新たなマーケティングのチャンスも生み出します。

予測:高市政権下の小売業界5つの変化
これまでの分析を総合すると、高市政権が誕生した場合、小売業界には以下の5つの大きな構造変化が起こると予測されます。
- 1. 消費の二極化がさらに加速する給付付き税額控除などの支援策によって中低所得者層の生活必需品消費は下支えされ、スーパーやディスカウントストアには恩恵があります。一方で、インフレによって実質所得が目減りする中間層は節約志向を強め、富裕層やインバウンド客を掴めない専門店の苦戦は続くとみられます。
- 2. プライベートブランド(PB)戦争が激化する顧客のロイヤルティをめぐる戦いの主戦場は、PBへと完全に移行します。PBはもはや「NBの廉価版」ではなく、企業のブランドイメージそのものを体現する戦略商品となり、その開発競争はますます激しくなることが予想されます。
- 3. インバウンド消費は「ハイリスク・ハイリターン」市場へ円安が続く限りインバウンド消費の活況は続きますが、その市場は米中対立などの地政学的な緊張によって、いつ需要が急減するかわからない、より変動の激しいものになります。東アジアの特定国への依存から脱却し、全方位的な誘客戦略をいかに早く構築できるかが成功の鍵となります。
- 4. サプライチェーンの国内回帰が進む「日本製」や「国内調達」は、単なるマーケティング手法から、事業継続のためのリスク管理戦略へとその意味合いを変えます。多くの小売業者は、海外の政治・経済情勢に左右されない、安定的で強靭な国内サプライチェーンの構築を優先するようになるでしょう。
- 5. 「減税期待」が消費をかく乱する消費税減税は「選択肢から排除しない」とされていますが 28、党内の支持を得られておらず、実現のハードルは高いのが実情です 10。しかし、「減税されるかもしれない」という期待が広がるだけで、高額商品の「買い控え」が発生するリスクがあります。たとえ減税が実現しなくても、こうした期待感が広がるだけで、家電量販店や家具店の売上は一時的に大きく落ち込む危険性があります。
