
三越伊勢丹ホールディングス(以下、三越伊勢丹)は、2025年3月期において記録的な営業利益を達成し、その戦略的取り組みの成功を鮮明に示した。本稿では、同社の2025年3月期の業績、インバウンド市場の現状と今後の見通し、そして新中期経営計画下での2026年3月期の事業動向と企業計画、強化された株主還元策について詳述する。
1. 2025年3月期:記録的営業利益達成、「個客業」への転換が結実
2025年3月期、三越伊勢丹は「個客業」への転換を推進力とし、目覚ましい業績を達成した。これは、同社が顧客一人ひとりとの関係深化に注力してきた成果の表れと言える。
1.1. 連結業績ハイライト:増収、大幅な営業増益を達成
三越伊勢丹の2025年3月期連結業績は、売上高が前期比3.6%増の5,555億円(555,517百万円)、営業利益が同40.4%増の763億円(76,313百万円)となり、営業利益は2年連続で過去最高を更新した。経常利益も同47.2%増の881億円(88,123百万円)と大幅な伸びを示した 。一方で、親会社株主に帰属する当期純利益は、関係会社株式の売却や防衛増税等の影響による法人税等調整額の計上など、非経常的な要因により同5.0%減の528億円(52,814百万円)となった 。百貨店定借テナント売上などを含む総額売上高は1兆3,036億円(前期比6.5%増)と好調だった。
この営業利益の過去最高更新は、同社の事業運営の力強さを示している。当期純利益の微減は、主に一時的な税務要因や資産売却に関連するものであり、中核事業の健全性が損なわれたわけではないことがうかがえる。むしろ、事業の選択と集中を進める過程での戦略的な判断が影響したと分析できる。
表1: 三越伊勢丹ホールディングス 2025年3月期 連結業績ハイライト
項目 | 2025年3月期実績 | 前期比増減率 | 前期差 |
---|---|---|---|
総額売上高 (百万円) | 1,303,600 | +6.5% | +79,000 |
売上高 (百万円) | 555,517 | +3.6% | +19,000 |
営業利益 (百万円) | 76,313 | +40.4% | +21,944 |
経常利益 (百万円) | 88,123 | +47.2% | +28,246 |
親会社株主に帰属する当期純利益 (百万円) | 52,814 | -5.0% | -2,766 |
1.2. 主要店舗の圧倒的な存在感と戦略の成果
業績を牽引したのは、主要店舗の好調さだ。特に伊勢丹新宿本店は、総額売上高が前期比12.1%増の4,212億円と過去最高を更新し、初めて4,000億円の大台を突破した。三越日本橋本店も同5.7%増の1,616億円、三越銀座店は同18.5%増の1,241億円と、首都圏の旗艦店が軒並み高い成長を示した。首都圏百貨店合計では7,752億円(同10.0%増)となった。また、札幌丸井三越、名古屋三越、岩田屋三越といった地域主要3社も増収を確保した。
これらの成果は、同社が推進する「高感度上質戦略」や店舗リモデルの効果が具現化したものと言える。しかしながら、地域店舗に目を向けると、例えば伊勢丹浦和店(前期比6.7%減)、仙台三越(同4.6%減)のように前年実績を下回った店舗も見受けられる。この事実は、旗艦店が持つ圧倒的な集客力とブランド力に比べ、地域市場の特性や競争環境がより複雑であることを示唆している。同社が進める、伊勢丹新宿本店・三越日本橋本店への送客や商品の取り寄せを可能とする「拠点ネットワーク戦略」は、こうした地域店舗の活性化を目指すものだが、その効果の浸透には地域ごとのきめ細かな対応と継続的な強化が求められるだろう。
表2: 主要百貨店 総額売上高実績 (2025年3月期)
店舗名 | 総額売上高 (億円) | 前期比増減率 | 前期差 (億円) |
---|---|---|---|
伊勢丹新宿本店 | 4,212 | +12.1% | +453 |
三越日本橋本店 | 1,616 | +5.7% | +87 |
三越銀座店 | 1,241 | +18.5% | +193 |
三越伊勢丹計 (首都圏) | 7,752 | +10.0% | +705 |
地域主要5社計 | 3,192 | +2.9% | +89 |

1.3. 収益性向上の牽引役:「個客業」への変革とコストコントロール
収益性の大幅な向上は、「個客業」への転換と厳格なコストコントロールの賜物である。三越伊勢丹は、従来のマス向けの「館業」から、顧客一人ひとりとの関係を深める「個客業」への変革を中期経営計画の柱として推進してきた。その結果、2024年度末の識別顧客数は761万人(2021年度差+316万人)、識別顧客による売上高は6,395億円(同+2,136億円)に達するなど、着実な成果を上げている。エムアイカード会員や年間100万円以上購買顧客の売上も伸長しており、CRM戦略が効果を発揮していることがわかる。
同時に、販売管理費は2,613億円と、総額売上高が前期比6.5%伸長したにもかかわらず、前期比1.2%減(32億円減)に抑制された。これは、年間削減計画▲70億円を上回る▲79億円の経費構造改革の成果であり、「百貨店の科学」と称する科学的視点を取り入れた経費コントロール手法が浸透していることを示している。
「個客業」戦略は、単に優良顧客からの売上を増やすだけでなく、事業運営全体の効率化とコスト構造の最適化にも深く関連している。個々の顧客ニーズを深く理解することで、マーケティング活動はよりターゲットを絞った効率的なものとなり、マス広告などに比べて費用対効果が高まる。また、「百貨店の科学」のような取り組みを通じて、商品仕入れや在庫管理、人員配置といったオペレーション面でも無駄を削減し、最適化を図ることが可能になる。このように、顧客エンゲージメントの深化とコスト効率の追求が両輪となって収益性を押し上げる好循環が生まれていると考えられる。

2. インバウンド市場の動向:「失速」懸念の背景と三越伊勢丹の対応策
回復基調にあったインバウンド市場だが、一部で「失速」との声も聞かれる。三越伊勢丹は、この市場環境の変化をどのように捉え、対応しようとしているのだろうか。
2.1. 2025年3月期インバウンド実績と市場環境
2025年3月期における三越伊勢丹の海外顧客による売上高は1,700億円に達し、これは前中期経営計画期間中の2021年度実績と比較して実に1,868%増、金額にして1,609億円の大幅な増加となった。百貨店業界全体としても、訪日外国人による売上は過去最高を記録し、コロナ禍前の2019年の水準を上回っている。この実績は、インバウンド市場の力強い回復を示すと同時に、今後の成長を測る上での高い基準点となっている。
「失速」という表現は、この急回復後の成長率の鈍化や、旅行者の消費行動の変化(例えば、モノ消費からコト消費へのシフト、円安の進行による購買層の変化など)、あるいは競争激化といった要因を指している可能性が高い。2025年3月期が記録的な年であったことを踏まえると、市場が崩壊したというよりは、成長の質や構造が変化しつつあると捉えるべきだろう。
2.2. 2026年3月期インバウンド計画:一時的調整と下期回復への期待
三越伊勢丹の2026年3月期における国内百貨店合計の海外顧客売上計画は1,667億円と、前期比98.0%(33億円減)を見込んでいる。内訳を見ると、上期は760億円(前期比88.0%、103億円減)と調整局面を予測する一方、下期は907億円(前期比108.3%、69億円増)と回復・成長を見込んでいる。
この計画は、短期的な逆風を認識しつつも、中長期的には回復軌道に戻るとの同社の見通しを反映している。特に上期の落ち込み予測は、市場の一部で囁かれる「失速」懸念を企業側も織り込んでいることを示唆している。
表3: インバウンド(海外顧客)売上計画 (2026年3月期)
対象 | 期間 | 計画額 (億円) | 前期比増減率 | 前期差 (億円) |
---|---|---|---|---|
国内百貨店計 | 上期 | 760 | 88.0% | -103 |
下期 | 907 | 108.3% | +69 | |
通期 | 1,667 | 98.0% | -33 |

この上期の計画下方修正は、足元の市場環境の不確実性を反映したものと考えられるが、下期からの回復を見込む背景には、後述する戦略的な対応策への自信がうかがえる。これは、単に市場環境の好転を待つのではなく、能動的に海外顧客との関係性を再構築し、新たな成長機会を創出しようとする姿勢の表れと言える。
2.3. 戦略的対応:「個客」として捉える海外顧客エンゲージメント
三越伊勢丹は、インバウンド市場の変動に対応するため、海外顧客に対しても「個客業」の理念を適用し、エンゲージメント強化を図る。その中核となるのが、2025年3月に導入された海外顧客向けアプリ「MITSUKOSHI ISETAN JAPAN」である。このアプリは、サービス開始後約1ヶ月で登録件数が46,611件に達するなど、好調な滑り出しを見せており、店舗情報や商品・イベント情報の発信を通じて、海外顧客の識別化と関係構築を進めるツールとして期待される。
さらに、海外外商顧客数の拡大や海外外商機能の拡充、アプリビジネスグループの新設による獲得顧客情報を活用した新ビジネスモデルの探索、サロンでのMR(複合現実)提案といった「レヴワールズ」の進化など、多角的な施策を計画している。
これらのデジタル技術を活用した取り組みは、従来のインバウンドビジネスが抱えていた、観光客の量的変動や一時的な購買ブームへの依存といった脆弱性を克服し、より持続可能で質の高い収益構造を構築するための戦略的転換と言える。個々の海外顧客との継続的な関係を築くことで、市場の短期的な変動に左右されにくい、ロイヤルティの高い顧客基盤の確立を目指している。

3. 2026年3月期展望と新中期経営計画:「個客業」深化で持続的成長へ
三越伊勢丹は、2026年3月期およびそれ以降を見据え、新中期経営計画の下で「個客業」をさらに深化させ、持続的な成長を目指す。
3.1. 2026年3月期 連結業績予想:増収、営業利益の更なる更新目指す
2026年3月期の連結業績予想は、売上高が前期比0.3%増の5,570億円、営業利益が同2.2%増の780億円(3年連続の過去最高益計画)を見込んでいる。一方で、経常利益は、関係会社株式の売却に伴う持分法投資利益の減少により、同16.0%減の740億円となる見通しだ。しかし、親会社株主に帰属する当期純利益は同13.6%増の600億円と過去最高益を計画しており、1株当たり当期純利益は173.71円を見込む 。総額売上高は1兆3,200億円(同1.3%増)を計画している。
この経常利益の減少予測は、一見ネガティブに映るかもしれないが、その背景には戦略的な意図が隠されている。営業利益と当期純利益が増加する中で経常利益が減少するのは、非中核事業や投資効率の低いと判断された関連会社株式を売却し、その資金や経営資源をより成長性の高い中核事業、すなわち「個客業」モデルの強化に再配分する動きと解釈できる。これは、短期的な経常利益の変動よりも、長期的な企業価値向上と株主還元の最大化を重視する経営判断の表れと言えるだろう。
表4: 三越伊勢丹ホールディングス 2026年3月期 連結業績予想
項目 | 2026年3月期予想 | 前期比増減率 | 前期差 |
---|---|---|---|
総額売上高 (百万円) | 1,320,000 | +1.3% | +16,400 |
売上高 (百万円) | 557,000 | +0.3% | +1,483 |
営業利益 (百万円) | 78,000 | +2.2% | +1,687 |
経常利益 (百万円) | 74,000 | -16.0% | -14,123 |
親会社株主に帰属する当期純利益 (百万円) | 60,000 | +13.6% | +7,186 |
1株当たり当期純利益 (円) | 173.71 | ― | ― |

3.2. 新中期経営計画 (25~27年度):「連邦」を手段に「個客業ビジネスモデル」へ変革
2025年度から2027年度を対象とする新中期経営計画のフェーズ1は、「“連邦”を手段に“個客業”へ変革」をスローガンに掲げている。2025年度はその初年度として、百貨店を中核とした個客業プロセス活動を本格展開する年と位置づけられている。財務KPIとしては、2027年度に営業利益850億円、ROE 9.8%を目指す。顧客KPIでは、2027年度に識別顧客売上高6,870億円、グループ年間300万円以上購買顧客売上高2,270億円を目標としている。
この新中期経営計画は、従来の「個客業」戦略をさらに進化させるものだ。「連邦」という言葉が示すように、百貨店事業のみならず、クレジット・金融、不動産、食品など、グループ全体の経営資源を結集し、シナジーを最大限に発揮することで、識別顧客のライフスタイル全体に関わる価値提供を目指す。これは、単に商品を販売するだけでなく、顧客の生活全般における満足度を高め、より強固な関係性を構築しようとする「個客業2.0」とも言えるアプローチである。
3.3. 「個客業プロセス活動」の具体策:集客から生涯顧客化まで
新中期経営計画における「個客業プロセス活動」は、集客、識別化、利用拡大、生涯顧客化という4つの段階で具体的な施策が展開される。
- ①集客: 店舗リモデルへの積極投資(22-24年度比270%)や、伊勢丹新宿本店のプライベートブランド洋菓子、三越日本橋本店のジャパンクリエーションといった独自性の高いコンテンツ強化により、店舗の魅力を高め、集客力の向上を図る。
- ②識別化: 国内顧客に対しては、年会費無料の「エムアイカード ベーシック」導入(エムアイカード獲得件数 前年比161%と好調)や、三越伊勢丹アプリとエムアイカードを連携させた「MI Wメンバー」の拡大、新上位カード・ポイント制度の導入(2026年度以降)を進める。海外顧客に対しては、前述の「MITSUKOSHI ISETAN JAPAN」アプリや海外外商機能の拡充を通じて識別化を推進する。
- ③利用拡大: 識別化した顧客に対し、個別の購買情報に基づいたコミュニケーションを強化することで、一人当たりの年間購買額の大幅増(個別発信により3.5倍向上との想定)を目指す。また、グループ会社間の連携を強化する「連邦活動」を活発化させ、内製化によるコスト削減、BtoC・BtoBビジネスの展開拡大、グループ貢献収益を可視化する「連邦収益管理」の導入などを進める。
- ④生涯顧客化: 富裕層向けの招待会「丹青会」「逸品会」は過去最高の売上を更新しており、今後も各店独自の企画を拡充する。また、ヴァイオリンなどの文化的価値の高い商材やサーキット走行体験といった「百貨店外MD」の取り組みを強化し、海外顧客向けには「JAPAN SENSES」として日本独自のモノ・コト・サービスを提案することで、顧客との長期的な関係構築を目指す。
これらの施策は、単なる個別最適の追求ではなく、顧客データを基盤とした一連のカスタマージャーニーとして設計されている。物理店舗の魅力とデジタルツールの利便性を融合させ、国内外の顧客に対してきめ細やかな対応を行うことで、顧客生涯価値(LTV)の最大化を図る。特に「連邦収益管理」 の導入は、グループ全体の事業部門が共通の目標に向かって連携し、顧客中心の価値創造に貢献するための重要な仕組みとなるだろう。

4. 株主還元強化:累進配当と自己株式取得で企業価値向上へ
三越伊勢丹は、株主還元の強化にも積極的に取り組む姿勢を示している。
2025年3月期の配当は、中間配当24円、期末配当30円の年間合計54円を実施した 。配当性向は37.9%であった 1。続く2026年3月期は、中間30円、期末30円の年間合計60円の配当を予想しており、予想配当性向は34.5%となる。
自己株式取得については、2025年3月期に総額250億円の取得を実施した。さらに、2026年3月期に向けては、2025年5月14日から10月31日を取得期間とし、最大300億円(2,000万株上限)の自己株式取得枠を設定し、取得した株式は全て消却する方針を明らかにしている。
新中期経営計画(2026年3月期~2028年3月期)のフェーズ1における株主還元方針としては、総還元性向70%以上の水準(期間累計)を目指すとしている 1。配当については、2025年3月期の年間配当金54円を下限とする累進配当を実施する方針であり、これは企業収益の安定的な成長への自信の表れと言える。
このように強化された株主還元策、特に累進配当方針と70%以上という高い総還元性向目標は、経営陣が新中期経営計画下での持続的な利益成長に強い自信を持っていることの証左である。また、余剰資本を株主に還元するという規律ある資本配分方針を示すものであり、投資家からの信頼を高め、企業価値向上に資することが期待される。

5. 総括と今後の注目点
三越伊勢丹は、2025年3月期に「個客業」への転換と徹底したコストコントロールを背景に記録的な営業利益を達成した。インバウンド市場については、短期的な調整局面も想定しつつ、海外顧客の「個客」化という戦略的な対応で中長期的な成長を目指す構えだ。2026年3月期および新中期経営計画では、グループシナジーを活かした「個客業」のさらなる深化を通じて、持続的な成長軌道を描こうとしている。株主還元の抜本的な強化も、その自信とコミットメントを裏付けている。
今後の注目点としては、以下の点が挙げられる。
- 「個客業」戦略の実行深度と成果の持続性: 識別顧客の獲得と収益化の勢いを、全ての事業セグメントとグループ会社にわたり維持・拡大できるか。
- インバウンド市場の変動への適応力と海外顧客エンゲージメントの深化: 新アプリや各種施策が、市場変動の中で海外からのトラフィックをいかにロイヤルな識別顧客へと転換できるか。
- 新中期経営計画のKPI達成に向けた進捗: 2027年度営業利益850億円といった野心的な財務・顧客KPIの達成状況。
- 「連邦活動」によるシナジー効果の具現化: グループ内の縦割りを排し、BtoC・BtoB両面での収益成長とコスト効率化を計画通り実現できるか。
- 国内消費マインドの動向と富裕層以外の顧客層へのアプローチ: 「高感度上質戦略」で富裕層をターゲットとする一方、国内消費全体が停滞した場合の、より広範な顧客層へのエンゲージメント戦略。年会費無料の「エムアイカード ベーシック」はその一端かもしれないが、今後の展開が注視される。
これらの課題を克服し、戦略を着実に実行していくことで、三越伊勢丹は小売業界における独自のポジションをさらに強固なものにしていくことが期待される。
